「魚梁瀬杉」と「森林鉄道」
うまじ村の林業の歴史は古く、良質木材として有名な「魚梁瀬杉」が全国に知られるようになったのは、豊臣秀吉の時代にさかのぼります。
近代以降も、国の直営管理として国内屈指の木材生産を行い、大量の材木を運び出すために、明治44年に日本で3番目となる森林鉄道「魚梁瀬森林鉄道」が開通しました。
うまじ村を含む、中芸地域はかつて、
西日本最大の「森林鉄道」が駆け巡る
林業中心の地域でした。
そして、昭和30年代後半から
本格的なゆず栽培がはじまりました。
現在は、有名なゆずの栽培・加工と、
「永遠の森づくり」に取り組んでいます。
うまじ村の林業の歴史は古く、良質木材として有名な「魚梁瀬杉」が全国に知られるようになったのは、豊臣秀吉の時代にさかのぼります。
近代以降も、国の直営管理として国内屈指の木材生産を行い、大量の材木を運び出すために、明治44年に日本で3番目となる森林鉄道「魚梁瀬森林鉄道」が開通しました。
時代は流れ、木材価格の下落や後継者不足、地球環境問題への世間の関心の高まりによって、全国的に林業は大きな転換期を迎えています。
うまじ村では、平成12年に「第三セクター・株式会社エコアス馬路村」が設立され、「永遠の森づくり」を目指した新しい林業のシステムづくりを推進してきました。
現在、うまじ村の林業は馬路村森林組合、(株)エコアス馬路村、馬路林材加工協同組合が行なっており、「緑豊かで、四季を感じられる自然」を後世に残せるよう、今日も森と向き合っています。
長年、村の暮らしを支えてきた林業が衰退し始めた昭和38年頃、本格的なゆず栽培がはじまりました。
うまじ村は山間にあり、村にあるわずかな平地は米作に利用されていたので、はじまったばかりのゆず栽培は山中の小さな平地や、急峻な傾斜地で行われていました。
ゆずが本来持ちあわせている生育の強さもあり、不便な山中のゆず畑では、ほぼ「ほったらかし」の栽培が行われていたようです。
そんなふうに「ほったらかし」で育ったゆずは、ゴツゴツとした見ばえの悪いもので、当時はとても青果出荷のできるものではありませんでした。
しかし、うまじ村でのゆずの活用は、果汁をしぼり集めて「ゆのす(ゆず果汁)」や「ゆず酢」として出荷することが多く、見かけへのこだわりはなかったようです。
高知県内の小さな流通からはじまった「ゆのす」、「ゆず酢」は、いろいろな加工製品へと姿を変えて、今や全国へと広がりをみせるようになりました。